伝記
■設立は一九八七年
 
  
設立は八七年。当時TBSの文化情報部で働いていたディレクターが結集した。「自分たちの企画で、自分たち自身の番組を作りたい」設立の動機は、“下請け”的な存在に甘んじなければならない環境のなかで切実な願いだった。まさに背水の陣でのスタートであった。以来、TBSを始めテレビ東京、日本テレビの情報、ドキュメンタリー番組の制作に取り組んできた。特にTBSの「報道特集」では、八九年以降、中ソ和解、民主化運動、六四弾圧と続いた中国の激動の時期を、自らの企画とルートで取材、会社設立の動機を実体化することが出来た
■何故、テムジンなのか
 社名を「テムジン」にしようと最初に提案したのは、TBSの岡庭昇さんだった。「水道の水を飲むとガンになる」、「緊急報告コメがない」、「飽食の時代シリーズ」と、当時、「そこが知りたい」を舞台に視聴率とは無縁のセンセーショナルな番組に取り組んでいたディレクターである。彼がどんな思いでテムジンと云ったのか分らないが、私はその案に飛びついた。ロマンがあったからである。そして何よりテムジンという言葉の響きに何事にも屈しない意思の強さを感じたからである。
■始めに中国があった

 中国との出会いは、会社を設立する以前の八二年のことだった。当時、中国残留日本人孤児の訪日調査が始まったばかりの頃で、NHKはその前年に民間の訪中団に同行して旧満州に入り、日本人孤児の現状を始めてNHK特集で伝えていた。私たちは、ソ連軍の侵攻に驚いて避難する途中で四百名余りが集団自決した(麻山事件)ハタホ開拓団の慰霊団に同行して取材することにした。それまでの報道では触れていなかった「何故これほど多くの子供たちが中国に取り残されたのか」そのことを明らかにしようとしたのだ。中国ではハルピン以外ほとんど撮影が許可されない、今では考えられない厳しさだったが、交渉に交渉を重ねて麻山の自決現場まで行き、番組を完成させることができた。この取材を通じて、行く先々で会った孤児たちが語る人生と望郷の想いに何度も涙した。そして、言わば侵略者であった日本が置き去りにした子供たちを我が子以上に慈しみ育ててくれた中国人養父母の苦悩と恩愛を知った。彼らが生きた新中国とは、文化大革命とは、中国に対する関心が大きく広がった。

■必読書は「中国の赤い星」
 一頃、エドガー・スノーの「中国の赤い星」が新入社員の必読書だったことがある。国民党の前線を突破して延安に潜り込み、激しい攻撃に遭いながらも急速に勢力を拡大する中国共産党(紅軍)の思想と素顔を初めて伝えたレポートである。中国の今を理解する上でその原点となった時代を知って欲しかったからだ。当然、それだけでは中国を理解することは出来ないが、社員が共有するベースなればと考えたのである。しかし、最近の中国を理解するには更に遡って、例えば三国時代を知る必要があると最近は感じている。今後、三国志を必読書にする日が来るかもしれない。
■NHKとの出会い
 民放での番組制作に行き詰まりを感じていた我々に転機が訪れたのは、NHKとの出会いであった。ある人の紹介でNHKの小川悳一さんに会うことになった。「NHKスペシャルを作ってみないか」その一言に飛び上がった、あの時の感動は今でも忘れられない。勇んで二度、三度と企画を持参したが、意向に添わなかったようである。その後だった。既に撮影許可が降りていた「上海労働教養所」の企画を持参したのは。しかし実はこの企画を提案するのはかなり気が引けていた。企画の内容が民放で良くある“潜入もの”だったからだ。企画書を一読した小川さんは鋭く事の本質を指摘された。「つまり、改革開放によって入ってきた資本主義の欲望に足元をすくわれた若者が社会主義の教育によって立ち直るということだ…」「塀の中にカメラを据えて徹底的にインタビューしたら面白い」こうして、更に上海側と交渉を重ね実現したのがNHKでの第一作となる「告白・迷路者〜上海労働教養所〜」だった。
■“満貫”を作ろう
 この番組を制作する上でもう一人NHKのかけがえのない人材に出会うことが出来た。NHKクリエイティブの部長だった河本哲也さんである。「告白・迷路者」の撮影を終えて戻ってきたスタッフに、「よし、これで“満貫”を作ろう」と云われたのである。素材を見た訳ではない。これまで何の実績もない、民放ではどちらかと言えば“おちこぼれ”だった会社のスタッフにこう言って下さったのだ。直接私が聞いた訳ではないが、今でも忘れられない。この人たちと番組を作ろう、作りたい。スタッフの一致した思いであった。
■パートナーシップ
 共同制作の窓口となったNHKクリエイティブには優秀な人材が結集していた。彼らから多くのことを学んだが、この会社が最大の評価を与えられるのはその理想においてである。創立にあたって掲げた「パートナーシップ」の理念はテムジンのみならず、それまで民放の番組を支えてきた多くの制作プロダクションをNHKに結集させ、幾つもの優れた番組を誕生させた。「何を伝えようとするのか」制作者として同じ立場に立って議論を重ねる。当り前と云えばその通りだが、それまではなかった新鮮な体験であった。共同制作を重ねるなかで私たちが気付き、大事にしてきたのは、「現場の人物像に迫り、その人物の動きを通して表現する」ことであった。その象徴とも云えるのが、モンテカルロ国際テレビ映像祭でゴールデンニンフ賞(グランプリ)を獲得した「黄土の民はいま〜中国革命の聖地・延安〜」である。当時、部長だった二宮文彦さんはこのことを指して「テムジンの番組にはファクトがある」と折りに触れて評価された。
■誰よりも深く理解する
 NHKスペシャルの第三作となる「独生子女〜中国の人口抑制政策〜」が放送になって数ヶ月後のことだった。それまで面識がなかった中国大使館政治報道部の参事官から会いたいとの申し入れがあった。話は案の定、「独生子女」についてだった。「内容はすべて真実だが、君たちは中国の現状を深く理解していない」その時は多少の反発もあり、あまり気にも止めなかったが、後々、折りに触れて考えるようになった。番組の視点を一人っ子政策を強いられる人の悲しみではなく、町や村の最前線で政策を進める立場の人の苦しみに置いたら番組はどう変わっていたのか。そのことがあって「取材対象を誰よりも深く理解する」ことをテムジンの作風に掲げた。
■新"老朋友"
 創立以来の歩みのなかで、一つの大きな財産を築くことが出来た。中国の人脈である。当初、ほとんど知る人がいなかった中国に人脈を築くことが出来たのは、顧問をお願いしている金丸千尋さんに拠るものだ。金丸さんは、戦後も中国に止まり解放軍(東北民主連軍)に加わって新中国の建設に貢献された方で、帰国後も国交が開かれていない時代から大変な苦労をして両国の交流に尽力してこられた。残留孤児の帰国問題にも大きな貢献をされた。金丸さんから中国の人たちの考え方から付き合い方まで多くのことを教えて頂いた。また何人もの中国の友人を紹介して頂いた。彼らとの付き合いを深めるなかで新“老朋友”が中国各地に出来た。老朋友からの情報をもとに企画し、実現した番組もある「独生子女」もその一つである。中国に築いたネットワークは大きな財産であり、これからも折りにふれて彼らの協力、支援を仰ぐことになるだろう。
■第二ステージ
 ちょうど十年が過ぎた時期に、それまで一緒に苦労してきた仲間が会社を去ることになった。恰好良く言えば、進むべき方針に対する考え方の違いということになるが、やはり小さな会社の中で感情のもつれを解決する手だてが無かったからだろうと思う。幾つもの素晴らしい番組を作ってくれた彼らには、今も感謝している。この事では周りの人たちも大変心配してくれた。私自身も今後、テムジンをどのように運営していこうか、ずいぶん考えた。多くの人に会って多くの話をし、話を聞いた。なかでも印象深いのは先程の河本さんが言われた「いよいよ第二ステージが始まる…」と、いう言葉である。大変勇気づけられた。そして次の十年のグランドデザインを考えた。あれから四年が過ぎた今年の四月、そのデザインを更に具体化して会社の指針とした。基本は人材の育成である。ディレクターを育てるのは一朝一夕にはいかないが、次の三年を迎える頃には一人一人が更に逞しいディレクターに育っているはずである。

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